はじまり(1997年3月)
最初の告知
1997年3月転院を繰り返し3院目。ここはかなり混んでいるし、妹が薦めていた病院だった。ただ、家からすごく遠いのが難点だが。
鼻水・くしゃみ及び多飲多尿が気になると伝えた。血液検査と尿検査をした。私はみゃあの鼻水が気になっていただけだったのに。結果は意外なものだった。
「慢性腎不全」になりかかっている。それは老猫に多く、直らない病気だという。ただ、腎臓の3/4が壊れないと数値として出てこないので、食事療法となった。
気にしていなかった
1997年8月 次にいつ来たらいいのか、さっぱりわからず、ただ電話で薬だけをもらっていたら、「涼しくなったら連れてきて下さい」と言われた。そっか、たまには連れていかないといけないのね!と軽い気持ちで連れていったのだが。腎不全より鼻のことが気になっていた。検査の結果「腎不全」です。それから通院が始まった。

通院(1997年8月〜)
静脈点滴って?
1997年8月30日(土) 初めて静脈点滴。連続5日間続くらしい。入院でもいいらしいが、それはちょっと…。通院にする。
静脈点滴は管を静脈に入れっぱなしにするので、痛い思いをしなくて済むという。でも入れっぱなしで平気なのかな?6〜7時間ゆっくり点滴するらしい。人間なら人工透析や腎臓移植をするらしいが、ネコには点滴するしか方法がないとの事だった。
送り迎えが、大変だった。重くて、手がしびれそう。電車にのるときは、ケージごと袋に入れたが周りがみえないので、みゃあは騒ぐ。 袋を取ると、今度は周りの人が、必ず覗きこむ。
針が外れている!?
夕方迎えに行ったら、みゃあは前足に包帯をまかれていた。ひどく気になるらしく、しきりと噛んでいる。家に連れて帰り、出かけてかえってきたら・・・。包帯を外して血だらけになって、「みゃ〜」と迎えてくれた。管が外れてしまったの?慌てて巻き直してテーピングした。それからみゃあにはテーピングが必要になった。
電車は・・・
電車通院がすごくツライ。重いし、混んでるし、みゃあは騒ぎまくるし・・・。いろんな人に話し掛けられてその都度「病気で・・」と言わなければならないというブルーな気分。いつか直るのならいいけど、もう直ることはないから。「早くよくなるといいねー」と言われるたびにつらくなる。
皮下点滴のスタイル
連続通院の他に、行って5分で終わる皮下点滴というのも週末にする時があった。最初みゃあはすごくおとなしくて、じーっとしていて、先生や看護婦さんにびっくりされていた。それがだんだん暴れるようになってきて(当たり前だよね・・ごめんね。みゃあちゃん)。次には私がダッコしてると、おとなしかった。でもダッコしても点滴されるとわかるようになると、私に触らせないようになってきて・・・最後の方は看護婦さんにも押さえてもらわないとだめだった。みゃあに手をカプっとかまれたことが2回あったけど、その時はさすがにショックだった。みゃあにかまれるなんて・・こんなおとなしい子に・・・。
くすりエキスパートに!
最初ねこに薬ってどうやるのか、さっぱりわからなかった。本を読んだり先生や知り合いに聞いたり・・・。でも今じゃあ何でも大丈夫。点鼻・点眼・液体・粉・粒、なんでも飲ませられちゃう。けど、みゃあだけかも。他のには飲ませたことないもんなぁ・・・。
胸がしめつけられる
静脈点滴の時、預けてしまうから見たことはなかったけど、たぶんすごく痛いだろう・・と思ってた。だって血管に管を入れるわけだから。その前にバリカンで毛をそってるし。あえてそこは目をつぶってた。
だけど・・・結果が出てるかどうか、2,3ヶ月に一度血液検査をしていたのだが。みゃあは血液検査が嫌いで(誰だってキライだけど)、私も顔の方を押さえてたけど、ある時から診察台に抑えつけられると、ブルブル震えているようになった。「みゃあちゃん、震えないでよぉ。ごめんねごめんね。」って励ましてたけど、つらかった。何でこんなこと、みゃあにさせてるんだろう、私って。

告知(1997年8月)
そんなことって。
通院点滴を始めてから、みゃあの病院中心の生活に。1ヶ月のうち1週間静脈点滴をし、残りは皮下点滴を1度という状態。そして1ヶ月おきくらいに血液検査をしていた。みゃあはおとなしくていい子で・・・なのに、どうして!血液検査の結果がよくなかった。先生の言葉は想像もしていなかった。
先生:「みゃあちゃんの血液検査の結果があまりよくありません。」
私:あまりのショックに何も言えなかった。
先生:「もう少し点滴の回数を増やさないと。ただ、飼い主さんの予定もあるでしょうから・・・」
私:「 どういう状態なんでしょうか?」
先生:「何もしなければ、あと3ヶ月、点滴をしても来年の2月までもつかどうか・・・」
私:涙が出そうになるのを堪えるので精いっぱいだった。

そんな・・・通院は大変だけど、みゃあは見た目が変わらないから、今のままずっと一緒にいるのかと錯覚していた。病状はゆっくり進行してたから、みゃあはその状態に慣れていたらしい。だから具合が悪くても、ぜんぜんそんな風には見えなかった。

どうやって帰ったか覚えていない。その夜はみゃあを抱きしめて泣いてしまった。ずっと涙が止まらなかった・・・・。声をあげて泣いた。みゃあはどうしたのかと、びっくりして私の顔をなめた。こういう時、いつもアキノリは出張で、私はみゃあに頼り切っていたのに。そのみゃあが・・・。

だけど、決めた
しばらく、すごくつらい気分だった。みゃあがホットカーペットで爪をとぐので、買い替えようと思ってたけど、「みゃあは死んじゃうんだ」と思うと、なんかどうでもよくなってしまう。ずっと悩んで考えて考えて・・みゃあは私のねこだもん。私が考えてどうするか決めないと・・って。
で、決めた。すごく大変だしツライだろうけど、でもでも、1日1分でも長くみゃあと一緒にいたい。だから治療をできるだけ受けることにする。たとえお金がすごくかかっても、周りが反対しても。
次の通院で先生にその旨を伝えた。先生:「わかりました。できるだけのことはしてあげたいと思ってますから、がんばりましょう。」

波がきて(1999年3月)
願う
考えてもいなかった。かなり数値が悪く、人間や犬なら、もう生きていない数値らしい。でも猫は強いので、まだ生きていられるなんて。
もう通常の点滴ではだめで、24時間連続した点滴を1週間続けないとだめだなんて。
そんなに悪いのに、病院では、パリパリとご飯(カリカリ)を食べているなんて、みゃあちゃんはなんていい子なの。ずっと具合が悪いのに、それを見せずに耐えていたなんて。
これ以上数値が下がると、脳に窒素が流れて癲癇を起こしてしまうようになるらしい。

今までずっと入院なんてさせてなかったのに。なんとか家につれてかえっていたのに。だってみゃあは家で、枕の上にアゴを乗せたり、私たちの腕枕で寝るのが好きだから。

今日からだと急だから、という先生の配慮で明日からの入院になった。話を聞いている間も涙が出そうになる。

帰りの電車の中、いつもは起きているのに、丸くなって寝ていた。そんなにも具合が悪かったのね。最近、機嫌が悪いなぁと思っていたら、具合が悪かったんだね。

家に着いてから、すぐコタツに入っていったが、まだ冷たかったので怒って出てきて、椅子の上に寝ていた。
でもその後、私が椅子に座ったら、なんで!?いつもは来ないのに、自分の椅子から降りて私のひざの上に丸くなって寝ている。どうして?いつもそんなことしないのに。みゃあちゃん、もう最後のつもりじゃないでしょうね?昔のみゃあに戻っていて、とっても甘えん坊でかわいいけど・・・声をあげて泣いてしまった。

これから一週間、寒いし暗いし、夜一人だけど、病院で大丈夫かな・・・・まるで食べ収めのように缶詰やとりささみを食べまくっていた。
入院したら、余計具合が悪くなるんじゃない?ってアキノリは心配していた。私もそれは気になる。3/22で病院に行き始めてちょうど2年になる。
この日が何もなく過ごせることを願う。

結局、入院させたのは、この1回だけだった。みゃあは病院より、通院しているほうが体調がいいから。入院するほうが元気が出る子もいるのにね。
みゃあはやっぱり家の布団で寝るほうがいいんだろう・・・と思う。


急変(1999年7月)
いらだつ

もう長いこと、点滴に通って、薬も飲ませ、みゃあに嫌われてしまったけど、この状態がずっと続くと思っていたのに。
あんなにいつも効果が出ていた静脈点滴がぜんぜん効かないどころか、調子がよかったのに、点滴したせいで、具合が悪くなってしまったような気がする。
なんで!なんで!なんで?気が重く行きたくない病院へ行っていたのは、調子がよくなってほしいからなのに!
静脈点滴の結果が悪く、私は帰ってきてからいらだっていた。でも本当はわかっている。だってみゃあはもう直らない病気なんだから。いつかはこんな日がくることを、心の奥底ではわかってはいたけど、現実になると耐えられなくなる。

その夜、小康状態をずっと保っていたみゃあの様子が急変した。
21時過ぎだったと思う。2,3度吐き、苦しそうにア〜ンア〜ンとなきながら、部屋の中を歩きまわる。しばらく様子を見ていたが、一向によくなる気配はない。どうしていいのか、私には何もできない。診察は終わっている時間だったが、先生が自宅の電話番号を教えてくれていたので、悪いとは思ったが、23時頃先生に電話をした。
先生は快く、これから来れますか?できるだけのことをしてあげたいと思いますので。と言ってくれた。

病院へ着いたのは、24時近かった。先生はもう来ていて、注射をしてくれた。しばらく様子を見ていたが、相変わらず、ヨロヨロと落ち着きなく、病院の床を歩き回り、暗いほうへと行こうとする。目がまんまるで、瞳孔が開いている状態で、息も荒い。強い薬らしく、かなりフラフラとしているが、これで少しは安心らしい。

意地になって
もうすぐ、いってしまうんだよね・・・って思いながらも、神様、あと少し、あと少し・・・と祈る毎日だった。
点滴をしても効果がないのはわかっていたけど、病院へ行かないと、もっと早まってしまう気がして、暑い中を連れていった。もう半分意地になっていた。あきらめきれないでいた。みゃあの負担をもっと考えてあげられたらよかったのだけど。私には心の余裕がなかった。もうすぐみゃあとはお別れだと・・・認めたくないけど、心の隅ではわかっていたから。


だけど、みゃあは私に悟らせようとしていた。
7/24、もうぜんぜん私のところへは来ないし、夜もすぐに寝てしまっているのに。この日だけは違っていた。なぜかすごく元気で、前のみゃあちゃんに戻ったみたい。パソコンやってたら、「ひざに乗せて〜」ってやってきて、しばらくひざの上で寝ていた。体力は落ちていて、椅子にすら飛び乗れなかったけど・・・・。
そして明け方、ずっと猫ベットで寝ているから、私はその近くで、ソファーで寝ていたけど、この日だけは、以前のように、「一緒に寝よー!」ってやってきて、私と寝てくれた。
あえて意識したくなかったけど、心の隅ではわかったよ。みゃあちゃん、もうすぐなんだね。。。。。みゃあと私は深い意識の中でつながっていたんだね。
その日がきてしまった
1999年7月26日
1ヶ月間、求職していてやっと仕事が決まり、これで治療費の心配はないなぁ。。。と思っていたのに。
仕事が決まって、8月からの予定が早まり、7/26からになった。初日は顔合わせということで、午後から4時間ほど働くことに。
朝、病院で点滴をしてもらってから、会計を待っている間に白い泡を吐いたので、急いでつれて帰ってきたので、心配だったが、数時間だから・・と出かけた。
きっと、みゃあは
「ねーちゃん、仕事も決まったし、もう安心だね」って思ったんだろうね。
帰ってきたら、また泡を吐いて、息がつらそうだった。あわててアキノリに電話をする。「早く帰ってきて。もうだめかもしれないよ。」
それから長い夜だった。みゃあはほんとに最後までがんばって・・・みゃあの最後は私の胸の奥にしまっておきましょう。私にとって長い長い夜が過ぎた。

先生には電話をすることができず、FAXで知らせた。

みゃあの葬儀は翌日。偶然にも父の葬儀で行った火葬場と同じところだった。父の葬儀はすっごく寒い冬、みゃあの葬儀はすっごく暑い夏、どちらも風が強い日で、空に上る煙を見ることはできなかった。